若い時は思いもよらなかった自分と家族の過去を知りたい衝動に駆られる人が多いといいます。最近、それを手繰り寄せ調べ上げる専門家がいるとき聴きました。海外の友達も年のせいか、ファミリーツリーを作ったり、自分の生まれた国を訪ねたり、そこからいろいろな発見があったり、出会いがあったりで埋もれていた過去が浮かび上がってきたとききます。でもそれは、みんな、見える過去であり、いったいその先はどうなっているのだろうと考えてしまいます。
私たちは、死んだらどこへ行くのでしょうか?天国へ?地獄へ?それも実際に行った人に証明をしてもらっていません。霊魂は不滅だという証拠もありません。それに人間だけが霊魂があって、他の生き物、植物も動物も虫も見えないバクテリアも水だって、雲だって生きものではありませんか?霊魂があることが高等かということだって問題です。生生流転を繰り返す有形のものすべてが天国と地獄説では片が付きません。人間だけがあるというのも傲慢で自分たちだけが高等な生き物と思っている証拠かもしれません。
闇から出でて闇に帰るのでしょうか?いや、闇という言葉より、壮大な宇宙という言葉のほうが救われます。慶応大学の前野隆司教授の著された本に「人間が80歳まで生きるとしたら宇宙の誕生の一億七千百二十五分の一、人の生命はたった0.18秒しか生きていない」と書かれていました。有形の姿でいられるこの世での0.18秒、その後、また、それ以前を、永遠という時間の大きな宇宙から生まれ、またそこへ帰るのだと思えば、数代にわたるファミリーツリーは知りえる範囲のジグソーパズルと思えば楽しいです。
そんなわけで、誰も答えを出してくれない、私自身も回答できない問題は白紙で突き返すしかありません。つまりインタンジブル(見えない、見ることのできないなこと)にはタンジブルな人間が答えを出せないのだと悟りました。
〝何処からきてどこへ行くの?“と考えるとき、その通過点である「今、ここに生かされている時間」こそ、宇宙が与えてくれている大きな贈り物として私達は大切にしなければならないと思います。それに壮大な宇宙に帰ると思えばなんだか安心できます。しかも、みんな平等に。同じところから出てきて、同じところに帰る。依怙贔屓のようなちっぽけな計らいがないというのも安心です。自問自答しようと焦らず、宇宙の計らいに身を任せようと思うのは年のせいでしょうか、少し賢くなったせいか、諦めなのでしょうか?
いい回答のでた人の答案用紙があればぜひ参考にさせていただきたいと思います。
|