インタンジブルを深める




     
     
 

「時よとまれ、お前は美しい」ゲーテの『ファウスト』に出てくる有名な言葉です。悪霊メフィストフェレスとの契約で主人公のファウストはこの言葉を口にすると生命を失うのです。でも、その瞬間、あまりに幸せだったのでしょう。思わず言ってはいけないこの言葉を口にしてしまいます。また、16世紀のフランスの詩人ピエール・ド・ロンサールはその詩集『マリーへのソネット』の中で「時は流れる、時は流れる」と謳いました。詩人は人生や恋のはかなさ、空しさのような気持ちを読んでいるように思います。はたして、時が私たちの上を流れるのか、私たちが時の中を流れながら生きているのでしょうか? はっきりとはわかりません。でも、私はときどき主人公は「時」ではなく、私たちのほうではないかという思いにとらわれることがあります。

古代ギリシャの哲学者たちは「時」についてカイロスとクロノスという二つの概念を創りました。カイロスは、ときに主観的、個人的なものとして感じられる「ある瞬間の時」を、クロノスは過去から未来へ一定の方向に、一定の速度で流れる「時間」を指しているそうです。ギリシャの哲人がそういうことを、その時代すでに考えていたのかと、その深さに驚くばかりです。

久しぶりに会った私の兄が「僕も年を取ったからカイロス的に時を大切にして生きてゆきたい。クロノス的には先がないからな」と言ったことがあります。その言葉に、なるほど、「時」にも質と量が関係しているのだという考え方もあるのだと気付かされたのでした。

若い時と老いてからでは「時」に対して考え方が違がってきます。若さあふれるときは未来に向けてまだまだ先があると考えるし、人生は長いと思うでしょう。これは「量」です。しかし高齢になると、「ああ、先が見えてきた。一日一日を大切に過ごさなければ」と、その「質」を考えざるを得なくなります。単なる長生きは量であっても質が伴わないとだいいち楽しくないし、生きる価値がないかもしれません。

「時」は目に見えません。インタンジブルそのものです。しかし、ビジョンなどと違う点は、私たちになにも求めないし、救いの手をさしのべてくれるわけでもなく、私たちのような小さな存在に、あたかも無関心を装って、ただ流れていくだけです。そのかわり、「時」は私たちにその中でどう生きるか、インタンジブル・エネルギーをどう使うか、人生の質と量をどう分配するかを問いかけてきます。

古代ギリシャ時代の哲学者たちによって創り出された「時」についての概念、カイロスは、高齢化社会の現代に生きる私たちにいろいろな問題を考えさせます。それにしても、どの時点を目安に、私たちはカイロス的に生きればよいのでしょうか?

古今東西、「時」について考察している哲学者はたくさんいます。いずれも、すぐれた考察ばかりですが、正解はありません。なぜなら「時」は人の数だけ答えが違うからです。

「毎日感謝して生きている」という人こそ、「時」に対して正しい答えを見出したのかもしれないと思うのです。

 
                                                        K.Yamakawa