インタンジブルを深める




   国破れて山河あり  
     
 

敗戦70年の年オバマ大統領が広島訪問を果たしました。戦争で原爆を受けた唯一の国日本なのですから、何としても世界平和に貢献しなければなりません。でも、つらい記憶を忘れがちです。時間の経過とともに、戦争の記憶はフェードアウトしかかっています。

いまこの瞬間においても、大なり小なり同じようなことが地球上のあちこちで繰り返されています。個人的にはみんな戦争反対の精神ですが、国家的にはそうではないように思えます。死の商人もいます。戦争は経済を活性化させる側面があります。破壊のあとには需要が生まれます。戦争特需といいます。人間の欲望は止まるところを知りません。たとえばイスラム教とキリスト教。宗教こそ個人の問題であるのに、なぜこれが人や他の国と戦う材料になるのでしょうか?

「国破れて山河あり」と杜甫の読んだ美しくも悲しいこの詩はいまの世の中にあてはまるせしょうか? 日本の国は敗れて70年。戦争の責任は自他に在り、一方だけに存在しないはずです。敗戦にもツケがあるし、勝戦にもツケがまわってきます。何の犠牲もなしに勝つこともないし、タンジブルに何かを得たとしても、その裏には大きな犠牲があることも忘れてはいけません。失わずして勝つことはできないのです。後々支払うツケは、エンドレスです。勝ったからといって喜んでいられないし、安心もできません。

私は3歳の時に「終戦」を迎えました。「終戦」などときれいな言葉を使っていますが、「敗戦」です。大人たちが玉音放送を聴いて泣いている姿を異様な光景として子供心に焼き付けています。バナナ一本を一家7人で切り分けて食べた記憶もあります。乳母車の下に食料を隠し、その上に何食わぬ顔をして座るお手伝いもしたのです。栄養失調で体中おできを出して、ビタミン不足で脚気になりました。こんな病名は今の世の中から消えてしまいました。疎開した田舎でどれだけ親を慕って泣いたことか、今ははるかに懐かしい思い出です。その思い出もだんだん薄れていきます。

戦争体験を若い世代に語り継いだ方がよいにきまっています。でも経験のない世代にどう語ればいいのでしょうか? 悲惨な戦争の映像を見せたところで一つのドキュメンタリーとしてしか捉えられないかもしれない。これからの戦争がどんな形になるのか、どんな規模になるのか、どれだけの人が犠牲になるのかを考えたら、そんなことをしでかす人間は地球上の生き物の中でいちばん愚かな生き物に違いありません。私たち人間は恥を知らなければなりません。

杜甫の詩を私なりに解釈すると「たとえ何を失おうと、そこには我が、故郷の山があり、河がある。心のふるさとは失っていない」となるでしょうか。これは敗れた人や国の人を慰め、励ます大きなインタンジブルな力の詩であると思います。誰にとっても地球は故郷、その故郷を子孫のために残すこと、それは全人類の責任です。タンジブルなものを求めれば求めるほど戦争が起こるのです。その結果、かけがえのないインタンジブルな価値が失われるのです。21世紀は全人類がそれを学ぶべき世紀にしたいものです。山も河も子供に残す世紀に!

 
                                                        K.Yamakawa