一日のうちで一度も怒りを感じないで過ごせる人は幸せです。お年寄りなら人柄も丸くなり、怒ったからといって答えが出るわけがないことを悟るのでしょうが、私がその境地に至るまでには、まだまだ時間がかかりそうです。
怒りには「私憤」と「公憤」の二つがあります。私憤は、ある人に、出来事に、モノに対して感じる怒りです。これには怒りの対象がありますから、タンジブルな怒りです。だからやがて、その怒りは心のなかで解決したり、話し合いの結果、納得して収めたり示談したりします。解決するまでは怒鳴ったり、モノをぶつけたり、人に聞いてもらったり、それぞれみんな手段を講じているはずです。でも私には、モノをぶつける相手もいないし、高価なお皿などを壊したらもったいないと思うし、大声を出してもこだましか返ってこないから、独り言を言うしかないのです。昔、近所のおばあさんが「かけたお皿や湯飲みを捨てずにおいておきなさい、役に立ちますよ」と言っていたことを思い出しました。おばあさんはおじいさんや、お嫁さんとの人間関係でひどく苦労しているご様子でした。
それに比べて「公憤」というのは厄介です。社会的、倫理的に道義が外れているからと社会や組織に一人で憤っても何一つ解決しません。自分にとってのインタンジブルな「悪のパワー」にどんなに憤りを感じたところで、それをぶつける相手の姿が見えないからです。私にはそんな余力も時間もないし、熱くなってデモに参加する年齢でもありません。ささやかな抵抗は、しばらくテレビを見ず、新聞を読まないで、世間から距離を置いてみることです。そうすれば、逆に良く見えてくることもあります。
筆の力で「公憤」を晴らしている作家は立派です。不公平や差別、不条理なことにまみれた世の中ですが、読者の共感を得る文章なら、かならず一抹の希望が託されているはずです。
この年齢になってわかったこと、心の憤りを減らすには、対人関係をスリムにする、多くを期待しないこと、人の口から出る言葉の裏を読むこと、美しくおいしそうに見える物には毒があると知ることです。いろいろな人生体験から身に着けた智恵で、怒りをコントロールするしかありません。
しかし皆さん、結果が出ようが出まいが、怒ることに一つだけいいことがあります。まだ怒れる間は怒るエネルギーがあって、元気があるという証拠です。まったく怒れなくなる時がいずれやって来ます。それまでは、怒るにしても血圧平常値を保つ程度にとどめ、血を煮えたぎらせず、やたらものを口に入れてストレスを発散させ糖尿にならぬように気を付けることです。どうかご自愛のほどを。
|