新年早々,“死んでいった人”と書くのは気が引けるのでロマンチックな言葉を選びました。今年の春、後期高齢者になる私も政府がその団体旅券を発行してくれてグループに入れてくれたからには旅の支度は多少必要かと思い、スーツケースに何を入れるべきか準備をしています。身軽に、いや、もはや何も持ってゆけないのだけれど...
高齢になって気がつくことの一つは忌み嫌われる〝死”という言葉にあまり抵抗感を持たなくなったということです。受け入れなくてはならない現実に少しでもメンタルトレーニングをしておいたほうが、いくぶんでもその時に役に立つと思っているところが可愛いものです。“後期高齢者オプティミズム”とでもいうのでしょうか。
私は若い時からいつも、亡くなってもはやこの世にいない人のほうが生きている人より人生を導き、エールを与えてくれていると信じ、いまもそう思っています。亡くなった人の音楽を聴いていても、本を読んでいても、絵画を眺めていても、そこからどれだけインタンジブル・エネルギーを与えてもらっているか計り知れません。特に、私は自叙伝が好きで、政治家、音楽家、作家、画家、経済界で成功した人、巷で自分なりに生きて、自分史を書いた人の本を読んで、言葉に出来ないぐらい勇気づけられ、励まされ、ああ人生、みんな不条理の中に生き、それを乗り越え、旅立っていったのだという思いは、それらの人と自分の人生を共にあゆんでいるような錯覚にとらわれます。
そして私は“旅立っていった人”をとても大切にありがたく思います。なぜなら死んでしまった人たちは決して私たちを傷付けません。大声で張り倒しません。付きまといません。ちょうど、こちらが必要とするだけの量の勇気やアドバイスを、楽しい夢、美しい風景、心に響く音として淡々と送り届けてくれます。
こちらが頂き放題、一方的に楽しみ、利用しているというのに、請求書を送ってくるわけでもありません。これに対し、生きている人には、入場料、講義料、演奏費、教育費、本代などを支払わなければなりません。おカネがものを言うこの世の中、タンジブルな代価を支払わないかぎり、その知恵、芸術や知識の多くを手にすることはできません。
旅立っていった人の心はいかに広いことでしょう。存在そのものが“無”なのですから底なしの大きさです。もうこの世に生きていないのですから、おカネなどもう必要としない。だから相談料は無料です。
死してなお、彼らはインタンジブルなエネルギーを放出しています。それを頂き放題の私は、旅立っていった人を、お友達としても、相談相手としても信用しています。あの人だったらどう言っただろうかと問うてみるのです。すると、きまって冷静に的確なアドバイスが返ってきます。まことに人生の大先輩です。芸術家や著名な人たちだけではありません。父や母、主人、大切だった友達、知り合い、市井に生き、亡くなっていった人の人生そのものが参考書です。
お正月、徒然に、旅立った主人のファミリーツリーをつくってみました。かなりの過去が縦に伸び、かなりの生きている人が下にぶら下がり、横に広がっていてなかなか面白い発見です。
私の両親には50冊ほどあった写真帳を3冊にスリム化して保管しやすいように仕上げました。写真をはがし、クリーネックスで汚れを取り、貼り付けられた糊の裏に虫の死骸がくっついているのを取り除いたり、タイムスリットしたような世界でした。父の軍隊の小さな写真の裏には故郷を思い、俳句が書いてあったりして泣けてしまいました。
静かに過去の人たちを思い起こし、来し方を振り返るのもいいものではありませんか?
年の初め、そんなことをしながら旅立った人に、いささかの御礼を果たしています。
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