インタンジブルを深める




   人生という名の劇場  
   
 

もっと勉強しておけばよかった、都会より、自然に囲まれて田舎で生活したかった、もっとオピニオンを言うべきだった、もっと楽しんでおけばよかった、きりなく後悔、反省,自省の念でいっぱい。この年になると自分の欲求の何パーセントが実行出来たであろうかと過去を振り返ります。

思い通りに達成できなかったからと言って、誰を恨むこともできないし、責任を他の人に転嫁できません。それもそのはず。ほとんどは自分が自分の人生を無意識(インタンジブル)にあるいは意識的(タンジブル)に描いてそのレールの上を走ってきたからでしょう。

米国の社会学者のアーヴィング・ゴフマン(1922-1982)は人生をドラマツルギー(演劇論)の観点から分析しています。

“全ての人は自分で自分の人生の脚本を書き、それにそって、演技者として生きてゆく”

こうありたいという夢や希望や欲望をインタンジブルな力にして、脚本を書きます。
演技者の自分は人生という劇場でタンジブルな姿で台本に沿って役を務めます。

自分の脚本どおりに人生を演じきれる人は少ないでしょう。そうあるには果てしなくたくさんの稽古をし、リハーサルもし、衣装を着けてゲネプロもしなければいい役者になれません。自分が描いた脚本どおりに演じられないときにはストレスを抱え、苦しみます。

未熟だった若いころは、エネルギーにまかせて、向う見ずに演技をして迷優ぶりを発揮しました。人生劇場において、“この辺でよし、としよう”と気がつき、諦められればまだしも、なかなか悟りきれるものでもありません。もっといい演技をしたいともがきます。

そんなことを思いながらもう一度、脚本を書こうかと思ってみましたが、この年では、長編とはいきませんから、私はもっぱら短編を書いています。そして、自分の監督でもある私が今日もレンズをのぞき、自分という演技者のタンジブルな姿を見つめています。”あ、破れかぶれの演技をしている、やっぱり三流の役者だ“と気づいたときはすでに遅し、劇場の重い緞帳が、音もなくしずしずと降りだし、音楽もやみ、拍手一杯かと思ったら観客は静かで足早に去ってゆきます。

人生は悲劇でしょうか?シェークスピアが言っています。”人生は歩き回る影法師、哀れな役者だ”・・・切なく悲劇的にひびきますが、一人一人の人生はああでもないこうでもないと、答えのない問いを発しつつ、右往左往しつつ立派な喜劇を演じているのだと思うのですが、皆さんはどうですか?

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                                                        K.Yamakawa