インタンジブルを深める




   紙の墓  
   
 

たった一冊でも、自分の書いた本をこの世に残せる人は幸せだと思います。すぐれた本であれば、著者が亡くなった後でも、何百年、いや千年を越しても読み継がれます。石でできた墓は朽ち果てるかもしれません、でも、宇宙や自然の真理を追求し、人の心に響く本は、永遠に朽ち果てることはありません。本にはインタンジブルなパワーがつまっているからです。そうした本は著者にとって「紙の墓」といえるかもしれません。 

ところで、最近の活字文化の衰退は目を覆うものがあります。新聞の購読者は激減。本の売れ行きもかんばしくありません。すべてはスマホやパソコンにとってかわり,朝刊は昨日起きたニュースの確認のようなものになりました。そこには新聞社の思想や、取材記事はじめ、色々な情報も編集されているのですが、料理のレシピや、今どきの売れ筋商品やファッションの紹介、ほとんどの人が乗船することのない夢のクルーズなど紙面を埋めるためのあれやこれやの努力の結果が涙ぐましい限りです。紙面一面にドーンと打たれた巨大広告のために購読者はお金を払っている訳ではないのです。  

出版不況。最期のあがきというのは酷かもしれませんが、書籍売り場も同じような内容の本が横に10冊ぐらい並んでいて、中国、北朝鮮、韓国、トランプ政権、国内の政治問題や大学の教授の、お坊さんの、コンサルタントの皆さんが書かれた自己啓発書、すべてが似かよった内容で、どれをとっても大差ないといった程度になっています。個性あふれるメッセージや、こんな見方があるのかと驚かされるようなものを探すのはむずかしいものがあります。常識はずれの面白さを書く勇気のある作家も少なくなりました。まわりを窺いながら中道を行くような内容ばかり。読者が夢中になって読むほど興味を起こさせません。発刊されたタンジブルな一冊の本の中に書き込まれたインタンジブルな内容は人生の導き手、知識を身に付ける一番の近道だというのに。

パソコン、スマホ、テレビに振り回されるだけが理由で紙の文化が減ったのでもありません。本や新聞自体の内容がもはや、インタンジブルパワーを持っていません。「紙の墓」ならぬ「紙の墓場」というイジワルな言葉も浮かんできました。

目で活字を追い、大事と思われるところに青線を引き、ページの端を折り曲げたり、ステッカーを張り付けたりするようなインタンジブルな本、それなら少々高くても買うし、再読すること間違いなしです。毎朝、新聞を自分なりの意見をもって全面読む人はボケません。薬を飲むより効果的です。若い人にとってこれは寝言でしょうか。痴呆のトレーニングも兼ねて、紙の活字を大切にしたいものです。


『日本人になったユダヤ人』~「フェイラー 」ブランド 創業者の哲学~(大江 舜)が発刊されました。亡き主人の伝記でございます。ご一読くださればうれしく存じます。書店、アマゾンで取り扱っています。

 
   
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                                                        K.Yamakawa    
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