インタンジブルを深める




   音楽の題名  
   
 

「ジャジャジャジャーン」といえば、ベートーベンが19世紀のはじめに作曲したあまりにも有名な交響曲第5番「運命」の冒頭ですね。まさかこの楽聖は世界を覆うコロナ禍を見通していたのではないでしょうが、21世紀のいま、あたかも姿の見えないインタンジブルな「運命」が私たちに警告の扉をたたいているように聞こえなくもありません。

この交響曲、誰がいったい「運命」と名付けたのでしょう? 第5は案外重苦しくない曲です。
私にはローマの皇帝が凱旋して大きなアーチをくぐり、行進してくるような勇ましい曲に聞こえます。ほぼ、アレグロで力強く、むしろ明るく、最終楽章を聴くと、嗚呼、もう一度、戦いに出るぞーというエネルギーを感じます。

もし曲に、標題がついていなければ想像力やその時の情感というインタンジブルを働かせ、10人10色、違ったオリジナリティーたっぷりの曲の解釈が楽しめるのにと神聖な音楽に素人の私は無邪気にこんな勝手な思いをはせながら聴いています。

標題は曲に付けた「ペットネーム」、「あだ名」だという人がいます。とても面白いですね。一般的には「通称」といっていいのでしょう。標題は演奏家や評論家が便宜上つけて定着したものが案外多いのだそうです。確かに作品の解釈の手掛かりとはなるでしょう。例えば、ショパンのワルツ6、作品64といわれて聴くのと「子犬のワルツ」と標題があるから聞きやすいという曲もたくさんあります。

ドビュッシーやフォーレなど印象派の音楽は、ロマン派音楽の伝統的な調性を斥け、よりファジーでやさしい気分や雰囲気の表現を大切にする音楽様式ですが、その逆に標題のほうは、海、波、雲、月というふうに明確で具体的な言葉になっていたりします。さて、歌劇王リヒャルト・ワグナーの場合は、強烈な個性を持つ妻のコジマと、大きな自我を持つふたつの頭を寄せ合ってひねり出したのでしょうか? いずれにしても、作曲家自身が意図して付けたもの、強い思い入れが込められた標題は、さすがにゆるぎなく、それ以外のものがニックネームのように付けられる余地はありません。

マーラーは交響曲第6番に「なき子をしのぶ歌」とつけ、アルマ夫人に子供が死んでもいないのにこの標題はひどいと言われたそうですが、この作品が完成した後、突然、娘が亡くなりました。予言的標題ですね。チャイコフスキーの6番も最初、悲劇とつけられることになっていて作曲家は嫌がっていたところ「悲愴」はどうだと言われて納得したそうです。ドボルザークの第8番がなぜ、「イギリス」とつけられたのかもピンとこないと言われています。スラブ的な曲なのに、イギリスで出版されたからだという説もあります。

標題のつけ方だけを取り出して調べてみるのも面白い音楽へのアプローチになるかもしれません。今後、曲を聴くときには標題のあるものはそれを意識して、「なぜ、そうつけられたのか」「曲とマッチするか」「誰がつけたのだろう」などと考慮しながら聴いてみたいと思っています。そして番号で表記されているものは自分流に思いをはせて聞くのも楽しいのではないか、私だったらこんな標題にするなどと空想しながら聴くのも味なものかもしれません。

音楽こそ、つかのま人の心に触れ、そして空に消えてゆく一番美しいインタンジブルパワーだと思います。さらに、その時の自分の感情や空想というインタンジブルを加えて果てしなく、音楽の世界を広げようと楽しみが増えました。憎いコロナがもたらした自粛生活のコロナの思いがけない贈り物です。

 
                                                        K.Yamakawa