インタンジブルで「モノの見方」を深める


   「危険水域」に入った雑誌  
   
 

シェイクスピアのお芝居「マクベス」の冒頭、3人の魔女が登場し、「きれいは汚い、汚いはきれい」と謎のような言葉を残すと霧の中に消える。外見に迷わされるなということでしょうか、真実を突いた逆説の深い意味に惹かれます。

最近、あまりに美しい姿をしている野菜や果物、食料品を見ているとここまで見映えが必要でしょうか。ラベルやパッケージの裏を見れば添加物の長い長いリストです。さらに生産者が見える写真が付いていますが、むしろ泥が付いているほうが、よほど安心できる。世のなか食品に限らず、大体がこんな風に工夫され化粧されていて、私たち消費者はまんまと騙される。目に見える「タンジブルなもの」を巧妙に演出することで市場を獲得しているのです。

今日は本屋さんに行ったついでに雑誌について書いてみることにします。

週刊誌、月刊誌、季刊誌、本屋さんの棚は、さながら雛人形の飾りのような賑やかさですから、めざす雑誌を探し出すのには時間がかかります。

やっと見つけても、たいていの場合、立ち読みで充分。ざっと目を通すのに2センチの厚さでも10分もあれば充分です。とりわけ婦人向けの本はずっしり重いうえに、丈夫な表紙で指を切って痛い思いをするのです。

内容はと言えば、超高価な、身分不相応なジュエリー、時計、ファション製品に、お化粧品ばかり。雑誌社は広告収入に大部分を頼っているのです。その美しいグラビアに誘われて買う人がいるのでしょうか。日本の雑誌はあまりにも美しく体裁が整えられています。その割に内容がともなわない。情報誌として役割を果たしていない。そのときだけ楽しめばそれでよいということでしょうか。ハイソでリッチな夢の世界を求めている読者にはよいかもしれませんが、私には、参考にもなりません。

これとは対照的なのは、最近見つけたイギリスに関する雑誌です。その中味の面白さにはまってしまいました。その厚さ、わずか5ミリ。控えめで地味な外見です。ところが、あらゆる角度から取材され、素朴でシンプルで地に足がついたミドルクラスの私たちの手に届く内容は心にするする入って、抵抗感がありません。政治、経済、住宅事情、社会背景、文化、歴史、地理、思想、衣食住が、わかりやすく説明されているのです。つまり、「使える雑誌」で、「身につく教養書」なのです。これぞプロの編集者の腕であり、出版社のビジョンなのでしょう。なかには、まだ健全な雑誌文化がまだ日本にも残っているのがうれしいです。

季節が外れていようとも、何年前のものでも、いつ読み返しても、価値がある内容には例外なく「インタンジブルな魅力」が備わっていると言えます。

そういえば日本の音楽関係の雑誌で私のお気に入りがあります。

これも何年前のものでも面白く読める。外見はセピア色でも内容は一向に色あせていません。参考書として大いに役立つので捨ててしまうことなどできません。だから書棚にとってある。見逃した号は過去のバックナンバーから拾って注文することさえあります。

美しくきれいなのがいちばん大切だと思うのが私たちの国民性なのでしょうか、外見を構いすぎて、中身をおろそかにしているのは、出版業界に限ったことではありません。

雑誌もテレビも、単に、見せるためだけであってはならない。見て、読んで、感じて、考えさせる情報誌や報道でなくてはならない。つまり、目で見えるタンジブルなものがすべてであってはならないのです。

「一億総白痴化」とはいまは亡き社会評論家の大宅壮一氏が生み出した憂国の言葉ですが、国民の知的レベルをはなから馬鹿にしている雑誌やテレビこそが国民のレベルを下げているのです。けばけばしく、面白おかしいのはもうたくさん。わたしたちミドルクラスは教養も知識も恥ずかしくない程度には身に着けている。国民を見くびるのはやめてほしい。

雑誌、新聞、テレビの業績が下がっていくのは自業自得です。私たちはいつまでも同じ船に乗らない。目指す陸地が違うのですから。

もうすぐお雛祭り。婦人雑誌の内容は容易に想像できます。3年、5年、いや、10年前のもとほぼ変わらない。昔の方が素朴であるだけに深い伝統文化が感じられました。ところが最近のものは、グラビア写真技術が上がったせいで、テカテカ、ピカピカしていてお雛様がかわいそう。見た目は綺麗でも、心にはまったく響かない。

「美しい」の下には何が隠れているのでしょう。魔女の言葉を思い出してほしい。

 
  山川和子(フェイラージャパン創業者)      
                                                         
     
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